全生庵(Zenshōan)

名前: 全生庵
ふりがな: ぜんしょうあん
ローマ字: Zenshōan
区分: 寺院
宗派1: 臨済宗
宗派2: 国泰寺派
宗派3: 
特徴: 三遊亭円朝。山岡鉄舟。弘田龍太郎墓・曲碑
エリア: 三崎坂北側
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中5-4-7
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/全生庵

お寺のサイト: 全生庵

山岡鉄舟ゆかの寺として知られている全生庵。ちょうど三崎坂の中腹あたりに位置します。ところで夏といえば怪談。その中でも三遊亭円朝作 『怪談牡丹灯籠』 は映画で何度も観ましたが、一番記憶に残る怖さでした。お寺は円朝遺愛の幽霊画コレクションを所蔵しており、毎年8月に幽霊画展を開催しています。というこで、早速行ってまりました。お寺のこじんまりした一室で40点ほど拝観できましたが、非常に至近距離で貴重な美術品を鑑賞できました。途中から団体さんが入ってきたため怖さ半減でしたが、コレクションはこれだけでないそうで、「来年はまた違った作品も展示します」とのことでした。境内を少し歩いてみると裏手に、巨大な黄金色の観音像が見えました。外からは見えなかったのですが。。。後で確認すると、観音霊園ということで、永代供養なども行っているようです。

 

全生庵本堂 全生庵 山岡鉄舟の碑 全生庵 三遊亭円朝の碑

東京都指定旧跡
三遊亭 円朝 墓
所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
指定: 昭和二十八年十一月三日
初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(1839)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島初通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855)十六歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈篭』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造りの家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(1900)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
平成十三年三月三十一日 設置
東京都教育委員会

東京都指定旧跡
山岡 鉄舟 墓
所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
指定; 昭和二十八年十一月三日
江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(1888)七月十九日五十三歳で死去した。山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。
平成十三年三月三十一日 設置
東京都教育委員会

弘田龍太郎墓・曲碑
台東区谷中五丁目四番七号 全生庵
「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年、高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの動揺を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。
昭和二十七年、文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に葬られてた。享年六十歳。 平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。
平成十四年三月
台東区教育委員会