谷中霊園の中にあって天王寺から歩いてすぐ
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 言問
荒川区のサイト:本行寺 日蓮宗東京都北部
お寺のサイト:養傳寺 日蓮宗東京都北部宗
お寺のサイト:瑞輪寺 日蓮宗東京都北部宗
荒川区のサイト:経王寺 日蓮宗東京都北部
お寺のサイト:大行寺 日蓮宗東京都北部宗
ヒマラヤスギの角向かい側に、矢印付きで寺
谷中霊園から三崎坂北側を下り、観智院を過
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) ヒマ
お寺のサイト: 全生庵 山岡鉄舟ゆかの寺
お寺のサイト:瑞松院(Facebook)
安立院(Anryūin)

名前: 安立院
ふりがな: あんりゅういん
ローマ字: Anryūin
区分: 寺院
宗派1: 曹洞宗
宗派2: 
宗派3: 長耀山
特徴: 曹洞宗。六地蔵。谷中霊園
エリア: 谷中霊園
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区 谷中7-10-4

谷中霊園の中にあって天王寺から歩いてすぐの所にある安立院。ただ、中央の大通りからは見えずらい墓地の外れにあるため、訪れる人も疎らで、狭い境内はひっそりと静まり返っています。日頃の手入れが行き届いているのでしょう、植え込みの緑やお花がとても綺麗です。境内に柔和で慈悲深いお顔をしたお地蔵様や観音立像、そして六地蔵が安置されており、心安らかに供養できる空間となっています。

安立院本堂

佛心寺(Busshinji)

名前: 佛心寺
ふりがな: ぶっしんじ
ローマ字: Busshinji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 顕壽山
特徴: 日蓮聖人説法坐像。毘沙門天像。
エリア: 言問通り北側小道を入る
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中1-5-35
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/仏心寺_(台東区)

日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

言問通り側から小道に入り、妙泉寺の手前に小さな山門がありますが、そこが、佛心寺です。山門に刻まれた白地の寺名がひときわ目立ちます。山門から細長い参道が真っすぐと続き、両脇は深い緑で覆われています。参道の先にお庭のような境内があり、右手に緑に囲まれた本堂が見えてきます。裏道の奥のまた奥にひっそりと佇むお寺とは、いかにも谷中らしい気がします。

佛心寺参道 佛心寺境内、本堂

本行寺(Hongyōji)

名前: 本行寺
ふりがな: ほんぎょうじ
ローマ字: Hongyōji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 長久山
特徴: 月見寺。景勝の地。太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚。一茶や山頭火の句碑
エリア: 御殿坂
郵便番号: 1160013
住所: 東京都荒川区西日暮里3-1-3
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/本行寺_(荒川区)

荒川区のサイト:本行寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

JR日暮里駅を出て御殿坂北側に見えるのが本行寺です。江戸城を築いた太田道灌の菩提寺でもあり、こじんまりした境内には一茶の句碑「陽炎や道灌どのの物見塚」や道灌丘碑が見られます。山頭火の句碑「ほっと月がある  東京にきている」もあり、まさに歴史と風流を感じることができるお寺です。

本行寺本堂 本行寺 一茶の句碑 本行寺 太田道灌 建碑の道灌丘碑

月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代には太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。
(荒川区教育委員会)
養傳寺(Yōdenji)

名前: 養傳寺
ふりがな: ようでんじ
ローマ字: Yōdenji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 運立山
特徴: 400年の歴史あるお寺。養傳寺校(まちのお寺の学校)。ゆったり寺ヨガ開催
エリア: 三崎坂北側小道を入る
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中5-2-16
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/養伝寺

お寺のサイト:養傳寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

安立寺からはす向かい側、築地塀近くに、養傳寺があります。お寺の一部を新調したのでしょうか、真新しい薄茶色の山門や波線模様の入った塀が印象的です。境内はそれほど広くなく、右手に小さなお堂を構え、その奥に本堂が見えます。お賽銭箱前に可愛らしい香炉が置かれています。本堂の木戸にはめ込まれた大きなすりガラスも違和感なく周囲に溶け込んでいます。ネットで調べると、養傳寺校というサイトが見つかりました。「まちのお寺の学校」を開いているようです。地域に密着して、とても良い試みだと思います。

養傳寺境内 養傳寺本堂 養傳寺 竹内元正君碑

竹内元正君碑
この碑は小児科医師・第八代当主竹内元正の顕彰碑として、縁家の医師・佐々木高仰の発案により明治31年9月に建てられました。元正は羽後國で代々続く医家に生まれました。本人も医学への志を持ち、幕末には長崎で西洋医学(外科学)を学び、江戸にて小児科を開業しました。また明治天皇の皇太子(後の大正天皇)御典医として、御病気の際には病の回復に尽くしました。明治19年に元正が49歳で没して養傳寺に葬られた際、皇太子より弔意を賜りました。尚、本碑は江戸・明治時代の三大石匠の一人と呼ばれた、井亀泉(せいきせん・本名酒井八右衛門)の刻であります。
平成25年12月吉日
第十一代当主  竹内東太郎
運立山養傳寺住職 本郷見樹
瑞輪寺(Zuirinji)

名前: 瑞輪寺
ふりがな: ずいりんじ
ローマ字: Zuirinji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 慈雲山
特徴: 除厄・安産飯匙の祖師。東京七面山
エリア: ヒマラヤスギ周辺
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中4-2-5
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/瑞輪寺

お寺のサイト:瑞輪寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

お寺のサイト」の縁起に記載されていますが、瑞輪寺は「。。。開基大檀越は徳川家康公。。。」ということもあり、確かにこの辺りのお寺の中では広大な敷地を誇っています。また、山門前の広い裏通りの両側に散在するお寺(浄延院、躰仙院、正行院、、久成院、本妙院)は瑞輪寺の子院ということです。実際、各寺の山号は皆同じ「慈雲山」となっています。後でそのことを知って、何となく、周辺から明らかに違和感を感じていた広い裏通りの謎が解けた気がしました。ちなみに、観智院や初音幼稚園のある三崎坂向い側の小道を入ってすぐの所にある、東京七面山も、最初は固有のお寺かと思っていましたが、境内裏は瑞輪寺とつながっており、「安産飯匙の祖師由来」を見ると、その理由が分かります。本当にお寺の歴史は奥が深いです。

瑞輪寺本堂 ヒマラヤスギから瑞輪寺前の裏通りへ 瑞輪寺 東京七面山

大久保主水墓(都旧跡)
台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺
名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和3年(1617)没。なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成23年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成27年3月
台東区教育委員会

大沼枕山墓(台東区史跡)
台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺
大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星厳に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星厳が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治24年10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成5年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成21年12月
台東区教育委員会

江戸十大祖師
安産飯匙の祖師由来
文永11年(1274)3月13日
日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいたゞかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
平成21年5月吉日
瑞輪寺第57世
井上日修代

 

経王寺(Kyōōji)

名前: 経王寺
ふりがな: きょうおうじ
ローマ字: Kyōōji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 大黒山
特徴: 彰義隊の敗走で山門扉に官軍の銃弾跡が残る。木造大黒天像安置
エリア: 御殿坂
郵便番号: 1160013
住所: 東京都荒川区西日暮里3-2-6
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/経王寺_(荒川区)

荒川区のサイト:経王寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

日暮里駅から御殿坂を上り、諏訪台通りの曲がり角にあるのが経王寺です。境内は広く、緑に囲まれた本堂やお堂がひときは存在感を見せています。お堂には木造大黒天が祀られているそうです。知らないとまったく気が付かないですが、山門の扉に銃弾を受けたときの穴がいくつか空いています。いわゆる上野戦争のときに彰義隊を追った官軍が銃弾を撃ち込んだそうです。歴史を感じますね。

経王寺 経王寺境内 経王寺 大黒天安置

大黒天 経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農'冠(kanmuri)'勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が'要詮院(yōsenin)日慶'のために寺地を寄進し、堂宇(dōu)を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
荒川区教育委員会
大行寺(Daigyōji)

名前: 大行寺
ふりがな: だいぎょうじ
ローマ字: Daigyōji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 円妙山
特徴: 円妙山日感上人を開山として創建。法華経を唯一の拠所
エリア: 初音幼稚園向かい側の道
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中6-1-13
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/大行寺_(台東区)

お寺のサイト:大行寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

言問通りの谷中6丁目交差点から北側の道を入ってすぐ右手に大行寺があります。上野公園から谷中に抜ける際に通る道でもあり、横目で見ながら通り過ぎますが、白い石畳の参道に立派な山門と周りを木々で覆われた大きな屋根の本堂が見え、とても均整の取れた美しい造形で楽しませてくれます。お寺のサイトをみると、サクラの季節は特段見ごたえがありそうです。

大行寺本堂

頤神院(Ishinin)

名前: 頤神院
ふりがな: いしんいん
ローマ字: Ishinin
区分: 寺院
宗派1: 臨済宗
宗派2: 妙心寺派
宗派3: 象頭山
特徴: 頤神禅院。長い参道(クチナシ)
エリア: ヒマラヤスギ周辺
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中4-3-27
参考URL: 

ヒマラヤスギの角向かい側に、矢印付きで寺名の大きな看板が出ており、写真にある、やたらと長く続く参道を進めば頤神院というのは分かりますが、何故か進んでいいものか、しばし躊躇するくらい神秘的な道にも見えてきます。これが仏の道というのでしょうか・・・とにかく進んでみると、ごつい石材でできた山門にたどり着きます。こちらには 頤神禅宗 と書かれています。お寺にしてはやや殺風景な境内は広々としており、さらに進んでいいものか、またも逡巡する自分があります。煩悩を清め払うにはうってつけの空間のような気がしてきました。。。

頤神院に至る長い参道 頤神院本堂

加納院(Kanōin)

名前: 加納院
ふりがな: かのういん
ローマ字: Kanōin
区分: 寺院
宗派1: 新義真言宗
宗派2: 
宗派3: 長谷山
特徴: 朱色の山門。弘法大師。
エリア: 三崎坂北側小道を入る
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中5-8-5
参考URL: 

谷中霊園から三崎坂北側を下り、観智院を過ぎたあたりに、右に曲がる小道があります。延々と続く舗装された道路の突き当りに、小さくお寺の門が見えます。そこが加納院です。まるで、小道そのものがお寺の参道のようにも思え、最初見た時は吸い込まれるように小道に入って行きました。両脇にもいくつかお寺が散在しています。加納院に突き当たり、左に曲がると初音の森に出て、右に曲がると観音寺築地塀です。境内は狭く小さなお寺ですが、朱色の山門がとても印象的です。

加納院本堂 三崎坂から加納院に至る小道

久成院(Kujōin)

名前: 久成院
ふりがな: くじょういん
ローマ字: Kujōin
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2: 
宗派3: 慈雲山
特徴: 瑞輪寺の子院
エリア: ヒマラヤスギ周辺
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中4-1-5
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/久成院

日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

ヒマラヤスギからも近く、瑞輪寺の山門から見て広い裏通りの一番手前に、久城院があります。瑞輪寺の子院の一つで、とても小さなお寺です。真っ白な山門から見た本堂は古民家のようで、小ぶりながら日本的な情緒を感じます。

ヒマラヤスギから瑞輪寺前の裏通りへ

全生庵(Zenshōan)

名前: 全生庵
ふりがな: ぜんしょうあん
ローマ字: Zenshōan
区分: 寺院
宗派1: 臨済宗
宗派2: 国泰寺派
宗派3: 
特徴: 三遊亭円朝。山岡鉄舟。弘田龍太郎墓・曲碑
エリア: 三崎坂北側
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中5-4-7
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/全生庵

お寺のサイト: 全生庵

山岡鉄舟ゆかの寺として知られている全生庵。ちょうど三崎坂の中腹あたりに位置します。ところで夏といえば怪談。その中でも三遊亭円朝作 『怪談牡丹灯籠』 は映画で何度も観ましたが、一番記憶に残る怖さでした。お寺は円朝遺愛の幽霊画コレクションを所蔵しており、毎年8月に幽霊画展を開催しています。というこで、早速行ってまりました。お寺のこじんまりした一室で40点ほど拝観できましたが、非常に至近距離で貴重な美術品を鑑賞できました。途中から団体さんが入ってきたため怖さ半減でしたが、コレクションはこれだけでないそうで、「来年はまた違った作品も展示します」とのことでした。境内を少し歩いてみると裏手に、巨大な黄金色の観音像が見えました。外からは見えなかったのですが。。。後で確認すると、観音霊園ということで、永代供養なども行っているようです。

 

全生庵本堂 全生庵 山岡鉄舟の碑 全生庵 三遊亭円朝の碑

東京都指定旧跡
三遊亭 円朝 墓
所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
指定: 昭和二十八年十一月三日
初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(1839)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島初通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855)十六歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈篭』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造りの家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(1900)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
平成十三年三月三十一日 設置
東京都教育委員会

東京都指定旧跡
山岡 鉄舟 墓
所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
指定; 昭和二十八年十一月三日
江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(1888)七月十九日五十三歳で死去した。山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。
平成十三年三月三十一日 設置
東京都教育委員会

弘田龍太郎墓・曲碑
台東区谷中五丁目四番七号 全生庵
「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年、高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの動揺を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。
昭和二十七年、文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に葬られてた。享年六十歳。 平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。
平成十四年三月
台東区教育委員会

 

瑞松院(Zuishōin)

名前: 瑞松院
ふりがな: ずいしょういん
ローマ字: Zuishōin
区分: 寺院
宗派1: 臨済宗
宗派2: 妙心寺派
宗派3: 祝融山
特徴: 禅宗
エリア: ヘビ道の先
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中1-4-10

お寺のサイト:瑞松院(Facebook)

本寿寺のすぐお隣に、瑞松院があります。山門から境内、本堂までの配置や参道が何となく似てますが、こちらは本堂が、しっかりと見えます。禅宗ならではかどうかは、分かりませんが、渋みを持った木造の本堂が何とも言えない侘び寂びを感じさせます。

瑞松院本堂