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1 | 浄光寺 | じょうこうじ | Jōkōji | /jokoji/ | / | 寺院 | 真言宗 | 豊山派 | 法輪山 | 雪見寺。江戸六地蔵 | 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)山門をくづって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅像地蔵菩薩がある。元禄四年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ケ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏訪神社の別当寺であった。元文二年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので、「雪見寺」ともよばれた。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-4-3 | https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/jishajiin/nipporijinja/jyokoji.html | ||||||||
3 | 諏方神社 | すわじんじゃ | Suwajinja | /suwajinja/ | / | 神社 | 建御名方命 | 日暮里・谷中の総鎮守。源為朝公の山車。例大祭(夏祭り) | 諏方神社(Suwajinjya)信濃国(長野県)上諏訪社と同じ健御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。拝殿の脇には元禄十二年(1699)銘・元禄十四年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-4-8 | https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/jishajiin/nipporijinja/suwajinja.html | ||||||||||
4 | 養福寺 | ようふくじ | Yōfukuji | /yofukuji/ | / | 寺院 | 真言宗 | 豊山派 | 梅翁花樽碑。雪の碑。月の碑などからなる『談林派歴代の句碑』。柏木如亭の碑。自堕落先生の墓 | 養福寺と文人たち養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の'木食(mokujiki)義高'(享保3年没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(Higurashinosato)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。 荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-3-8 | https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/jishajiin/nipporijinja/yofukuji.html | |||||||||
5 | 啓運寺 | けいうんじ | Keiunji | /keiunji/ | / | 寺院 | 法華宗 | 本門流 | 法要山 | 木造毘沙門天像。区内唯一の日蓮宗系の庚申塔 | 木造毘沙門天像(啓運寺)啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院で、法要山と号す。上野にあったが、明治十八年に現在地に移転。毘沙門天は、多聞天ともいい。四方を守護する四天王の一つであるが、独立して福徳富貴の神としても信仰されている。当時の毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師伊東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-2-14 | |||||||||
6 | 経王寺 | きょうおうじ | Kyōōji | /kyooji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 大黒山 | 彰義隊の敗走で山門扉に官軍の銃弾跡が残る。木造大黒天像安置 | 大黒天 経王寺経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農'冠(kanmuri)'勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が'要詮院(yōsenin)日慶'のために寺地を寄進し、堂宇(dōu)を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 荒川区教育委員会 | 御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-2-6 | http://www.nichiren-shu.net/temple/index.html | |||||||||
7 | 延命院 | えんめいいん | Enmeiin | /enmeiin/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 宝珠山 | 七面大明神。七面坂。七面堂。延命院の大椎 | 七面大明神と延命院の大椎日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局(Misawanotsubone)。家綱出生の際に、安産を祈祷した慧照院(Eshōin)日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)、別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)、法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には、樹齢六百年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。 荒川区教育委員会 | 東京都指定天然記念物延命院のシイ延命院は慶安元年(1648)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。天保7年(1836)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(Higurashinosatosōzu)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政2年(1855)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高16.2m、幹回り5.5mの巨樹でしたが、平成14年(2002)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。 平成23年3月 建設東京都教育委員会 | 七面坂 (Shichimenzaka) 御殿坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院(Hojusan Enmeiin)の 七面堂にちなむ。 荒川区教育委員会 |
御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-10-1 | http://www.nichiren-shu.net/temple/index.html | |||||||
8 | 天王寺 | てんのうじ | Tennōji | /tennoji/ | / | 寺院 | 天台宗 | 護国山 | 谷中七福神(毘沙門天)。銅像釈迦如来坐像。富くじ興行。日蓮宗感王寺から天台宗に改宗 | 護国山天王寺 台東区谷中7丁目14番8号 日蓮上人はこの地の住人、'関長輝(SekiNagateru)'の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長輝は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394-1427)頃の創建という。『東京府志料(TokyoFushiryō)』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本(moto)日蓮宗ニテ長輝山感応寺ト号シ応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。 平成4年11月 台東区教育委員会 |
銅像釈迦如来坐像(Dōzōshakanyoraizazō) (台東区有形文化財) 台東区谷中7丁目14番8号 天王寺 本像については、『武江年表(Bukōnenpyō)』元禄3年(1690)の頃に、『五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳』とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む太田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には、「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺(Kannōji)第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺(Tennōji)と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。昭和8年に設置された基壇背面銘文によれば、本像ははじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会(Edomeishozue)』(天保7年(1836)刊)の天王寺の頃には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治7年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。なお、「丈六仏(Jōrokubutsu)」とは、釈迦の身長に因んで、一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。本像は、明治41年刊『新撰東京名所図会(ShinsenTokyoMeishozue)』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。平成5年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。 平成8年3月 台東区教育委員会 |
旧町名由来案内下町まちしるべ旧 谷中天王寺町(Yanaka Tennōji Machi) 本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長輝の草創にかかるといわれ、もとは長輝山感応寺と号した。のち元禄11年(1698)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保4年(1833)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治24年(1891)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。昭和42年(1967)の住居表示の実施で全域台東区東区谷中7丁目になった。 | 谷中霊園 | 1100001 | 東京都台東区谷中7-14-8 | http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/tennoji/ | |||||||
9 | 本行寺 | ほんぎょうじ | Hongyōji | /hongyoji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 長久山 | 月見寺。景勝の地。太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚。一茶や山頭火の句碑 | 月見寺(本行寺)本行寺は、大永六年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代には太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。(荒川区教育委員会) | 御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-1-3 | http://www.nichiren-shu.net/temple/index.html | |||||||||
10 | 大圓寺 | だいえんじ | Daienji | /daienji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 高光山 | 笠森おせん。鈴木春信の碑。右は薬王殿で瘡守稲荷のお社、左は経王殿でお祖師様 | 笠森おせん・鈴木春信の碑童女の手鞠唄にもうたわれた笠森おせんは、明和年間、錦絵の開祖といわれる鈴木春信の麗筆により、水茶屋の美しい茶汲女として江戸中に名を知れられた。おせんは春信の錦絵によって有名になり、春信はおせんによってその天分を発揮したといわれている。春信碑の選文は笹川臨風、おせんの碑は永井荷風がこれを記している。 昭和四十六年二月台東区 | 笠森お仙と鈴木春信の碑台東区谷中三丁目一番二号大円寺内お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年部門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃 五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。平成八年七月台東区教育委員会 | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中3-1-2 | http://www.nichiren-shu.net/temple/index.html | ||||||||
11 | 長久寺 | ちょうきゅうじ | Chōkyūji | /chokyuji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 延壽山 | 祈祷本尊、鬼形鬼子母尊神。息災延命、家運長久の霊験あらたか | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-4-11 | http://www.nichiren-shu.net/temple/index.html | ||||||||||
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