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id | name | furigana | roman | blog | map | category | sect1 | sect2 | sect3 | feature | origin1 | origin2 | origin3 | origin4 | area | postcode | address | tel | url | others | remarks | any1 | |
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1 | 浄光寺 | じょうこうじ | Jōkōji | /jokoji/ | / | 寺院 | 真言宗 | 豊山派 | 法輪山 | 雪見寺。江戸六地蔵 | 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)山門をくづって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅像地蔵菩薩がある。元禄四年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ケ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏訪神社の別当寺であった。元文二年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので、「雪見寺」ともよばれた。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-4-3 | https://ja.wikipedia.org/wiki/浄光寺_(荒川区) | ||||||||
3 | 諏方神社 | すわじんじゃ | Suwajinja | /suwajinja/ | / | 神社 | 建御名方命 | 日暮里・谷中の総鎮守。源為朝公の山車。例大祭(夏祭り) | 諏方神社(Suwajinjya)信濃国(長野県)上諏訪社と同じ健御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。拝殿の脇には元禄十二年(1699)銘・元禄十四年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-4-8 | https://ja.wikipedia.org/wiki/諏方神社_(荒川区) | ||||||||||
4 | 養福寺 | ようふくじ | Yōfukuji | /yofukuji/ | / | 寺院 | 真言宗 | 豊山派 | 梅翁花樽碑。雪の碑。月の碑などからなる『談林派歴代の句碑』。柏木如亭の碑。自堕落先生の墓 | 養福寺と文人たち養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の'木食(mokujiki)義高'(享保3年没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(Higurashinosato)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。 荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-3-8 | https://ja.wikipedia.org/wiki/養福寺_(荒川区) | |||||||||
5 | 啓運寺 | けいうんじ | Keiunji | /keiunji/ | / | 寺院 | 法華宗 | 本門流 | 法要山 | 木造毘沙門天像。区内唯一の日蓮宗系の庚申塔 | 木造毘沙門天像(啓運寺)啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院で、法要山と号す。上野にあったが、明治十八年に現在地に移転。毘沙門天は、多聞天ともいい。四方を守護する四天王の一つであるが、独立して福徳富貴の神としても信仰されている。当時の毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師伊東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。荒川区教育委員会 | 諏訪台通り | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-2-14 | https://ja.wikipedia.org/wiki/啓運寺_(荒川区) | ||||||||
6 | 経王寺 | きょうおうじ | Kyōōji | /kyooji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 大黒山 | 彰義隊の敗走で山門扉に官軍の銃弾跡が残る。木造大黒天像安置 | 大黒天 経王寺経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農'冠(kanmuri)'勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が'要詮院(yōsenin)日慶'のために寺地を寄進し、堂宇(dōu)を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 荒川区教育委員会 | 御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-2-6 | https://ja.wikipedia.org/wiki/経王寺_(荒川区) | |||||||||
7 | 延命院 | えんめいいん | Enmeiin | /enmeiin/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 宝珠山 | 七面大明神。七面坂。七面堂。延命院の大椎 | 七面大明神と延命院の大椎日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局(Misawanotsubone)。家綱出生の際に、安産を祈祷した慧照院(Eshōin)日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)、別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)、法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には、樹齢六百年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。 荒川区教育委員会 | 東京都指定天然記念物延命院のシイ延命院は慶安元年(1648)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。天保7年(1836)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(Higurashinosatosōzu)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政2年(1855)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高16.2m、幹回り5.5mの巨樹でしたが、平成14年(2002)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。 平成23年3月 建設東京都教育委員会 | 七面坂 (Shichimenzaka) 御殿坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院(Hojusan Enmeiin)の 七面堂にちなむ。 荒川区教育委員会 |
御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-10-1 | https://ja.wikipedia.org/wiki/延命院_(荒川区) | |||||||
8 | 天王寺 | てんのうじ | Tennōji | /tennoji/ | / | 寺院 | 天台宗 | 護国山 | 谷中七福神(毘沙門天)。銅像釈迦如来坐像。富くじ興行。日蓮宗感王寺から天台宗に改宗 | 護国山天王寺 台東区谷中7丁目14番8号 日蓮上人はこの地の住人、'関長輝(SekiNagateru)'の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長輝は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394-1427)頃の創建という。『東京府志料(TokyoFushiryō)』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本(moto)日蓮宗ニテ長輝山感応寺ト号シ応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。 平成4年11月 台東区教育委員会 |
銅像釈迦如来坐像(Dōzōshakanyoraizazō) (台東区有形文化財) 台東区谷中7丁目14番8号 天王寺 本像については、『武江年表(Bukōnenpyō)』元禄3年(1690)の頃に、『五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳』とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む太田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には、「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺(Kannōji)第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺(Tennōji)と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。昭和8年に設置された基壇背面銘文によれば、本像ははじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会(Edomeishozue)』(天保7年(1836)刊)の天王寺の頃には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治7年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。なお、「丈六仏(Jōrokubutsu)」とは、釈迦の身長に因んで、一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。本像は、明治41年刊『新撰東京名所図会(ShinsenTokyoMeishozue)』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。平成5年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。 平成8年3月 台東区教育委員会 |
旧町名由来案内下町まちしるべ旧 谷中天王寺町(Yanaka Tennōji Machi) 本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長輝の草創にかかるといわれ、もとは長輝山感応寺と号した。のち元禄11年(1698)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保4年(1833)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治24年(1891)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。昭和42年(1967)の住居表示の実施で全域台東区東区谷中7丁目になった。 | 谷中霊園 | 1100001 | 東京都台東区谷中7-14-8 | https://ja.wikipedia.org/wiki/天王寺_(台東区) | |||||||
9 | 本行寺 | ほんぎょうじ | Hongyōji | /hongyoji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 長久山 | 月見寺。景勝の地。太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚。一茶や山頭火の句碑 | 月見寺(本行寺)本行寺は、大永六年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代には太田道灌が斥侯台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。(荒川区教育委員会) | 御殿坂 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-1-3 | https://ja.wikipedia.org/wiki/本行寺_(荒川区) | |||||||||
10 | 大圓寺 | だいえんじ | Daienji | /daienji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 高光山 | 笠森おせん。鈴木春信の碑。右は薬王殿で瘡守稲荷のお社、左は経王殿でお祖師様 | 笠森おせん・鈴木春信の碑童女の手鞠唄にもうたわれた笠森おせんは、明和年間、錦絵の開祖といわれる鈴木春信の麗筆により、水茶屋の美しい茶汲女として江戸中に名を知れられた。おせんは春信の錦絵によって有名になり、春信はおせんによってその天分を発揮したといわれている。春信碑の選文は笹川臨風、おせんの碑は永井荷風がこれを記している。 昭和四十六年二月台東区 | 笠森お仙と鈴木春信の碑台東区谷中三丁目一番二号大円寺内お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年部門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃 五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。平成八年七月台東区教育委員会 | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中3-1-2 | https://ja.wikipedia.org/wiki/大円寺_(台東区) | ||||||||
11 | 長久寺 | ちょうきゅうじ | Chōkyūji | /chokyuji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 延壽山 | 祈祷本尊、鬼形鬼子母尊神。息災延命、家運長久の霊験あらたか | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-4-11 | |||||||||||
12 | 福相寺 | ふくそうじ | Fukusōji | /fukusoji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 松栄山 | 虚空蔵菩薩を安置。江戸時代に真言宗から改宗した。 | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-4-9 | |||||||||||
13 | 全生庵 | ぜんしょうあん | Zenshōan | /zenshoan/ | / | 寺院 | 臨済宗 | 国泰寺派 | 三遊亭円朝。山岡鉄舟。弘田龍太郎墓・曲碑 | 東京都指定旧跡三遊亭 円朝 墓所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地指定: 昭和二十八年十一月三日初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(1839)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島初通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855)十六歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈篭』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造りの家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(1900)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。平成十三年三月三十一日 設置東京都教育委員会 | 東京都指定旧跡山岡 鉄舟 墓所在地: 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地 指定; 昭和二十八年十一月三日江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(1888)七月十九日五十三歳で死去した。山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。平成十三年三月三十一日 設置東京都教育委員会 | 弘田龍太郎墓・曲碑台東区谷中五丁目四番七号 全生庵「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年、高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの動揺を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。昭和二十七年、文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に葬られてた。享年六十歳。 平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。平成十四年三月台東区教育委員会 | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-4-7 | https://ja.wikipedia.org/wiki/全生庵 | |||||||
14 | 青雲寺 | せいうんじ | Seiunji | /seiunji/ | / | 寺院 | 臨済宗 | 妙心寺派 | 浄居山 | 谷中七福神(恵比寿)。花見寺。青雲禅寺。南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴筆塚の碑。 | 滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺) 青雲寺は、臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751-64)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。 荒川区教育委員会 |
ひぐらしの里 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-6-4 | https://ja.wikipedia.org/wiki/青雲寺_(荒川区) | ||||||||
15 | 修性院 | しゅしょういん | Shushōin | /shushoin/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 運啓山 | 谷中七福神(布袋尊)。花見寺。 | 日ぐらしの布袋(修性院)修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣憤碑がある。荒川区教育委員会 | ひぐらしの里 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-7-12 | https://ja.wikipedia.org/wiki/修性院 | |||||||||
16 | 法光寺 | ほうこうじ | Hōkōji | /hokoji/ | / | 寺院 | 法華宗 | 陣門流 | 日照山 | 陸軍少年飛行兵慰霊碑。富士見坂 | 慰霊碑由来 ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者四萬五千にして空陸海に散華せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志等相い集うて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す。行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを 沙門 某 敬白 |
ひぐらしの里 | 1160013 | 東京都荒川区西日暮里3-8-6 | https://ja.wikipedia.org/wiki/法光寺_(荒川区) | ||||||||
17 | 安立院 | あんりゅういん | Anryūin | /anryuin/ | / | 寺院 | 曹洞宗 | 長耀山 | 曹洞宗。六地蔵。谷中霊園 | 谷中霊園 | 1100001 | 東京都台東区 谷中7-10-4 | |||||||||||
18 | 了俒寺 | りょうごんじ | Ryōgonji | /ryogonji/ | / | 寺院 | 天台宗 | 隋龍山 | 阿弥陀如来立像 | 谷中霊園 | 1100001 | 東京都台東区 谷中7-17-2 | https://ja.wikipedia.org/wiki/了俒寺 | ||||||||||
19 | 明王院 | みょうおういん | Myōōin | /myooin/ | / | 寺院 | 真言宗 | 豊山派 | 天瑞山 | 六地蔵 | 三崎坂北側 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-4-2 | ||||||||||
20 | 興禅寺 | こうぜんじ | Kōzenji | /kozenji/ | / | 寺院 | 臨済宗 | 興聖寺派 | 大道山 | 禅宗 | 三崎坂から加納院に至る小道 | 1100001 | 東京都台東区谷中5-2-11 | https://ja.wikipedia.org/wiki/興禅寺_(台東区) | |||||||||
21 | 安立寺 | あんりゅうじ | Anryūji | /anryuji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 常観山 | 下村観山墓。日親上人御真骨 | 下村観山墓台東区谷中5丁目3番17号 安立寺明治から昭和初期にかけての画家。本名は、晴三郎。明治6年和歌山に生まれる。幼少から絵を好み、14年上京。狩野芳崖、橋本雅邦に師事。ついで東京美術学校(現在、東京芸術大学)に学び、27年卒業、同校助教授となった。31年、岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍した。その後、教授に復職。また、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、38年帰国する。当時、日本美術院は不振の難局にあり、天心がその絵画部を茨城県五浦(北茨城市)に移したとき、観山も大観らと同所に転居した。明治40年第一回文展に「本の間の秋」を出品、好評を得た。45年、五浦を引き上げ、新居を横浜にかまえた。大正2年岡倉天心が没し、翌3年大観らと日本美術院を再興、現代日本美術の発展に寄与した。観山は多くの名作を発表したが、なかでも歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作である。昭和5年5月、58歳で没した。平成10年3月台東区教育委員会 | 三崎坂北側小道を入る | 1100001 | 東京都台東区谷中5-3-17 | https://ja.wikipedia.org/wiki/安立寺_(台東区) | |||||||||
22 | 養傳寺 | ようでんじ | Yōdenji | /yodenji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 運立山 | 400年の歴史あるお寺。養傳寺校(まちのお寺の学校)。ゆったり寺ヨガ開催 | 竹内元正君碑この碑は小児科医師・第八代当主竹内元正の顕彰碑として、縁家の医師・佐々木高仰の発案により明治31年9月に建てられました。元正は羽後國で代々続く医家に生まれました。本人も医学への志を持ち、幕末には長崎で西洋医学(外科学)を学び、江戸にて小児科を開業しました。また明治天皇の皇太子(後の大正天皇)御典医として、御病気の際には病の回復に尽くしました。明治19年に元正が49歳で没して養傳寺に葬られた際、皇太子より弔意を賜りました。尚、本碑は江戸・明治時代の三大石匠の一人と呼ばれた、井亀泉(せいきせん・本名酒井八右衛門)の刻であります。平成25年12月吉日第十一代当主 竹内東太郎運立山養傳寺住職 本郷見樹 | 三崎坂北側小道を入る | 1100001 | 東京都台東区谷中5-2-16 | https://ja.wikipedia.org/wiki/養伝寺 | |||||||||
23 | 加納院 | かのういん | Kanōin | /kanoin/ | / | 寺院 | 新義真言宗 | 長谷山 | 朱色の山門。弘法大師。 | 三崎坂北側小道を入る | 1100001 | 東京都台東区谷中5-8-5 | |||||||||||
24 | 本立寺 | ほんりゅうじ | Honryūji | /honryuji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 妙見山 | 曼荼羅-。説法像。妙見大菩薩像 | 三崎坂北側小道を入る | 1100001 | 東京都台東区谷中5-8-7 | |||||||||||
25 | 龍谷寺 | りゅうこくじ | Ryūkokuji | /ryukokuji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 栄照山 | 百日咳守護、たんぼとけ。 | 三崎坂南側 | 1100001 | 東京都台東区谷中4-2-35 | https://ja.wikipedia.org/wiki/龍谷寺 | ||||||||||
26 | 妙圓寺 | みょうえんじ | Myōenji | /myoenji/ | / | 寺院 | 日蓮宗 | 圓佳山 | 生髪鬼子母尊神像。八幡大菩薩像。 | 三崎坂南側 | 1100001 | 東京都台東区谷中4-4-29 | https://ja.wikipedia.org/wiki/妙円寺_(台東区) | ||||||||||
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