名前: 寛永寺
ふりがな: かんえいじ
ローマ字: Kaneiji
区分: 寺院
宗派1: 天台宗
宗派2:
宗派3: 東叡山
特徴: 慈眼大師天海大僧正。将軍家の菩提寺。天台宗別格大本山。清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門
エリア: 上野桜木、言問通り南側
郵便番号: 1100002
住所: 東京都台東区上野桜木1-14-11
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/寛永寺
お寺のサイト:寛永寺
天台宗東京教区(寛永寺)
言わずと知れた徳川将軍家の菩提寺である寛永寺。
縁起 江戸開府400年記念
東叡山寛永寺
元和8年(1622)、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野後を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の10分の1ほど)現在に至っています。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します。
寛永寺
寛永寺本堂
台東区上野桜木1丁目14番11号
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。間口・奥行ともに7間(17.4メートル)。前面に3間の向拝と5段の木階、背面には1間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木とし、細部の様式は和様を主とする。内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっている。
平成16年3月
台東区教育委員会
銅鐘
(台東区有形文化財)
台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺
本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍家綱)の1周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成19年3月
台東区教育委員会
東叡山寛永寺
元和8年(1622)、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野後を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の10分の1ほど)現在に至っています。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します。
寛永寺
寛永寺本堂
台東区上野桜木1丁目14番11号
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。間口・奥行ともに7間(17.4メートル)。前面に3間の向拝と5段の木階、背面には1間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木とし、細部の様式は和様を主とする。内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっている。
平成16年3月
台東区教育委員会
銅鐘
(台東区有形文化財)
台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺
本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍家綱)の1周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成19年3月
台東区教育委員会