感應寺(Kannōji)

谷中霊園の三崎坂方面入り口から言問通りに抜ける道を進み、途中小道を右に曲がったところに、感應寺があります。古めかしい山門と脇の松と石塔が印象的ですが、山門をくぐると境内は意外と開けており、左手に霊園が広がり中央に大きな屋根の本堂がどっしりと構えています。谷中霊園にある天王寺のガイドによると、元々天王寺は日蓮宗の感応寺であったが、幕府の命により、天台宗に改宗され、その後寺号も天王寺に改称されたようです。このあたり、この感應寺と因果関係があったのか気になっています。

宗派       山号  住所
日蓮宗光照山東京都台東区谷中6-2-4

日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)

感應寺 感應寺本堂

渋江抽斎墓
台東区谷中6丁目2番4号 感応寺
江戸末期の医師・儒学者。諱は全善、字は道純、抽斎は号である。文化2年(1805)、弘前藩医の子として江戸神田に生まれる。弘化元年(1844)、現在の浅草橋4丁目の地にあった医学館(東京大学医学部の前身)の講師になる。医学を伊沢蘭軒に、儒学を市野迷庵・狩谷(えき)斎に学ぶ。友人の医師森枳園との共著『経籍訪古志』(全8巻)は名高く、日本に伝わる漢籍の所蔵・伝来・体裁等を記したもので書誌学者・蔵書家としての抽斎の見識の高さが窺える。医師としての業績に、種痘治療法を記述した『護痘要法』の著書がある。安政5年(1858)コレラに罹り、54歳で没し、当寺に葬られた。境内の「渋江道純墓碣銘」は、抽斎の事蹟を刻むもので、漢学者海保漁村が撰した文を、書家小島成斎が記し、ともに生前の親交が深かった。没後、森鴎外の史伝『渋江抽斎』によって、初めて抽斎の名が一般に知られるようになった。
平成4年11月
台東区教育委員会

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