名前: 東覚寺
ふりがな: とうかくじ
ローマ字: Tōkakuji
区分: 寺院
宗派1: 真言宗
宗派2: 豊山派
宗派3: 白龍山
特徴: 谷中七福神(福禄寿)。赤紙仁王。宗祖弘法大師千百伍拾年御遠忌記念之塔
エリア: 田端
郵便番号: 1140014
住所: 東京都北区田端2-7-3
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/東覚寺
お寺のサイト:東覚寺
北区観光ページ(東覚寺)
東覚寺は谷中七福神の一つ福禄寿 を祀っているため、当サイトのお寺の一つとして掲載しました。 地理的には谷根千というよりは、北区田端駅に近く、最北に位置します。最南端に位置する 不忍池弁天堂との直線距離は約3kmくらいでしょうか。充分歩いて行ける距離です。谷中七福神巡りとなると、あちこちのお寺に寄りますので多少時間はかかりますが、道すがら寄る感じで行けますので、お天気が良ければ絶好の散歩コースになりそうです。途中、谷中銀座とかにも寄れますね。お寺は建て替えられたのでしょうか、本堂や境内は整備が行き届いており、とても綺麗です。何といっても右側に建つ赤紙仁王が印象的で、ペタペタと赤紙が貼ってある様は最初見た時は何かと思いましたが、由来を読んで納得です。境内にある「宗祖弘法大師千百伍拾年御遠忌記念之塔」と書かれた石塔も印象的です。
赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれ ている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(魔悪を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと身心安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終わりを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
白龍山 寿命院 東覚寺山主
東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
北区田端2-7-3 東覚寺
参詣客が赤色の紙を貼るため'赤紙仁王'の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。
平成21年9月
東京都北区教育委員会
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれ ている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(魔悪を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと身心安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終わりを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
白龍山 寿命院 東覚寺山主
東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
北区田端2-7-3 東覚寺
参詣客が赤色の紙を貼るため'赤紙仁王'の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。
平成21年9月
東京都北区教育委員会