名前: 瑞輪寺
ふりがな: ずいりんじ
ローマ字: Zuirinji
区分: 寺院
宗派1: 日蓮宗
宗派2:
宗派3: 慈雲山
特徴: 除厄・安産飯匙の祖師。東京七面山
エリア: ヒマラヤスギ周辺
郵便番号: 1100001
住所: 東京都台東区谷中4-2-5
参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/瑞輪寺
お寺のサイト:瑞輪寺
日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧)
「お寺のサイト」の縁起に記載されていますが、瑞輪寺は「。。。開基大檀越は徳川家康公。。。」ということもあり、確かにこの辺りのお寺の中では広大な敷地を誇っています。また、山門前の広い裏通りの両側に散在するお寺(浄延院、躰仙院、正行院、、久成院、本妙院)は瑞輪寺の子院ということです。実際、各寺の山号は皆同じ「慈雲山」となっています。後でそのことを知って、何となく、周辺から明らかに違和感を感じていた広い裏通りの謎が解けた気がしました。ちなみに、観智院や初音幼稚園のある三崎坂向い側の小道を入ってすぐの所にある、東京七面山も、最初は固有のお寺かと思っていましたが、境内裏は瑞輪寺とつながっており、「安産飯匙の祖師由来」を見ると、その理由が分かります。本当にお寺の歴史は奥が深いです。
大久保主水墓(都旧跡)台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺
名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和3年(1617)没。なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成23年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成27年3月台東区教育委員会
大沼枕山墓(台東区史跡)台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺 大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星厳に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星厳が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治24年10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成5年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。 平成21年12月台東区教育委員会
江戸十大祖師安産飯匙の祖師由来文永11年(1274)3月13日 日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいたゞかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。 平成21年5月吉日瑞輪寺第57世井上日修代
大沼枕山墓(台東区史跡)台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺 大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星厳に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星厳が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治24年10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成5年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。 平成21年12月台東区教育委員会
江戸十大祖師安産飯匙の祖師由来文永11年(1274)3月13日 日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいたゞかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。 平成21年5月吉日瑞輪寺第57世井上日修代