Blog 長安寺(Chōanji) お寺のサイト:長安寺 長安寺(Insta 福相寺(Fukusōji) 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 長久 臨江寺(Rinkōji) 谷中銀座からよみせ通りに入り、三崎坂を渡 東覚寺(Tōkakuji) お寺のサイト:東覚寺 北区観光ページ(東 延壽寺(Enjuji) お寺のサイト:足病守護の寺・日荷堂 日蓮 了俒寺(Ryōgonji) 天台宗東京教区(了俒寺) 長安寺のある側 感應寺(Kannōji) 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 谷中 法蔵院(Hōzōin) 天台宗東京教区(法蔵院) 言問通り谷中六 経王寺(Kyōōji) 荒川区のサイト:経王寺 日蓮宗東京都北部 円珠院(Enjuin) 天台宗東京教区(円珠院) 寛永寺の山門前 大泉寺(Daisenji) 天台宗東京教区(大泉寺) 長久院から少し 自性院(Jishōin) 境内の緑と本堂が自然に調和した見ごたえあ « Previous 1 2 3 4 … 8 Next »
長安寺(Chōanji) 名前: 長安寺ふりがな: ちょうあんじローマ字: Chōanji区分: 寺院宗派1: 臨済宗宗派2: 妙心寺派宗派3: 特徴: 谷中七福神(寿老人)。狩野芳崖の墓。板碑。エリア: 朝倉彫塑館前の通り郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中5-2-22参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/長安寺_(台東区) お寺のサイト:長安寺 長安寺(Instagram) 朝倉彫塑館前の通りを南に歩いて、ちょうど谷中霊園に通じるT字路のところに、長安寺があります。すぐお隣が観音寺でもあり、この辺り一帯は見どころが多いと思います。谷中七福神寿老人(Jyurōjin)安置のお寺ということもあり、谷中七福神めぐりで訪れる参拝客もちらほら見かけます。境内は樹木で遮られているせいか、さほど開けた感じがせず、正面に見える本堂らしきものはお屋敷のようにも見えます。狩野芳崖のお墓があるとのことですが、私自身はあまり見識がないため、もう少し勉強してから、改めて訪れたいと思います。 狩野芳崖墓(台東区史跡)台東区谷中5丁目2番22号 長安寺内 明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐(Kanō Seikū)の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信(Kanō Shōsenin Masanobu)に師事。 橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治17年第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当寺の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。明治21年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年11月、61歳で没した。墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)が建つ。平成5年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。 平成8年7月台東区教育委員会板碑(台東区有形文化財)台東区谷中5丁目2番22号 長安寺内 死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石(Itaishi)塔婆・青石(Aoishi)塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩(Ryokudeihengan)を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子〈キリーク〉が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。長安寺には、鎌倉時代の板碑3基・室町時代の板碑1基がある。 1.建治2年(1276)4月 円内にキリーク種子を刻む 2.弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種子を刻む 3.正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿(Bikunimyōa)」と刻む 4.応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む 長安寺の開基は、寛文9年(1669)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。平成3年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。 平成8年7月台東区教育委員会
福相寺(Fukusōji) 名前: 福相寺ふりがな: ふくそうじローマ字: Fukusōji区分: 寺院宗派1: 日蓮宗宗派2: 宗派3: 松栄山特徴: 虚空蔵菩薩を安置。江戸時代に真言宗から改宗した。エリア: 三崎坂北側郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中5-4-9参考URL: 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 長久寺のすぐお隣に福相寺があります。道路からずんと奥まった参道が印象的で小さな山門が見えます。山門から境内を覗くと、両脇を草木に囲まれたさらに狭い参道が奥まで続いており、山門からは本堂をうかがい知ることができません。日蓮宗東京都北部宗務所の説明には、「虚空蔵菩薩を安置。・・・毎月十三日 開帳。」とのことです。虚空蔵菩薩とは? 少し気になっています。
臨江寺(Rinkōji) 名前: 臨江寺ふりがな: りんこうじローマ字: Rinkōji区分: 寺院宗派1: 臨済宗宗派2: 大徳寺派宗派3: 龍興山特徴: 蒲生君平墓(国史跡)エリア: ヘビ道の先郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中1-4-13参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/臨江寺_(台東区) 谷中銀座からよみせ通りに入り、三崎坂を渡って、通称へび道を、てくてく東に進むと、途中から道幅が広がります。そこから歩いてほどない所に臨江寺があります。道端に申し訳なさそうに置かれた門柱から山門までの参道は広い駐車スペースのようになっており、その先に見える山門と境内の鮮やかな緑が調和して、絵に書いたような美しさです。山門から境内を覗くと、これまた深い緑に彩られた草木が生い茂り、その背後に黒くどっしり構える本堂が2本の灯篭を携えて、禅の道を問いかけてきます。しばし時を忘れて瞑想に耽る空間です。 蒲生君平墓(国史跡) 台東区谷中1丁目4番13号 臨江寺 蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧また君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789~1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)『山陵志』を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年国史跡に指定された。山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。 平成10年3月 台東区教育委員会
東覚寺(Tōkakuji) 名前: 東覚寺ふりがな: とうかくじローマ字: Tōkakuji区分: 寺院宗派1: 真言宗宗派2: 豊山派宗派3: 白龍山特徴: 谷中七福神(福禄寿)。赤紙仁王。宗祖弘法大師千百伍拾年御遠忌記念之塔エリア: 田端郵便番号: 1140014住所: 東京都北区田端2-7-3参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/東覚寺 お寺のサイト:東覚寺 北区観光ページ(東覚寺) 東覚寺は谷中七福神の一つ福禄寿 を祀っているため、当サイトのお寺の一つとして掲載しました。地理的には谷根千というよりは、北区田端駅に近く、最北に位置します。最南端に位置する 不忍池弁天堂との直線距離は約3kmくらいでしょうか。充分歩いて行ける距離です。谷中七福神巡りとなると、あちこちのお寺に寄りますので多少時間はかかりますが、道すがら寄る感じで行けますので、お天気が良ければ絶好の散歩コースになりそうです。途中、谷中銀座とかにも寄れますね。お寺は建て替えられたのでしょうか、本堂や境内は整備が行き届いており、とても綺麗です。何といっても右側に建つ赤紙仁王が印象的で、ペタペタと赤紙が貼ってある様は最初見た時は何かと思いましたが、由来を読んで納得です。境内にある「宗祖弘法大師千百伍拾年御遠忌記念之塔」と書かれた石塔も印象的です。 赤紙仁王尊 石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれ ている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(魔悪を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと身心安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終わりを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。 白龍山 寿命院 東覚寺山主東京都北区指定有形民俗文化財 赤紙仁王(石造金剛力士立像) 北区田端2-7-3 東覚寺 参詣客が赤色の紙を貼るため'赤紙仁王'の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。 平成21年9月 東京都北区教育委員会
延壽寺(Enjuji) 名前: 延壽寺ふりがな: えんじゅじローマ字: Enjuji区分: 寺院宗派1: 日蓮宗宗派2: 日荷堂宗派3: 六浦山特徴: 足病の守護の寺。日荷上人尊像。日荷堂の絵馬。エリア: ヒマラヤスギ周辺郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中1-7-36参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/延壽寺_(台東区) お寺のサイト:足病守護の寺・日荷堂 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) ヒマラヤスギのある角から直ぐの所に、延壽寺があります。ちょうど日荷堂の前で説明書きを読もうとしていたら、参拝の老夫婦から声をかけられました。「こちらのお寺は足腰の病に効くんですよ・・・」その時は知りませんでしたが、説明の由来を読むと確かに興味深いお話が書かれています。まだ健脚を保ってるとはいえ、最近、左の膝関節が気になりだしたので、きちんとお参りしておかないと。日荷堂には貴重な絵馬も多数残されているとのことで、とても気になるお寺の一つになりました。時々、散歩の際に寄ってみることにします。 延寿寺日荷堂の絵馬 (台東区有形民俗文化財) 台東区谷中1丁目7番36号 延寿寺境内 延寿寺は明暦2年(1656)に開創された日蓮宗寺院です。宝暦5年(1755)久遠寺に蔵されていた日荷像を勧請し、安永元年(1772)に日荷堂を建立して、本尊としました。日荷は武蔵国久良岐郡六浦(現横浜市六浦)の人で、日蓮の高弟、日祐の弟子となり妙法と号しました。六浦にて、自ら造立した2躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ、山門に安置したと伝えられます。日荷堂の絵馬は、仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道を歩いた日荷の健脚にちなんで、足病平癒の祈願のために奉納されたものです。日荷堂には現在、絵馬が75点、文字額が8点残されています。はきものの絵馬が残された寺社は多くありますが、この日荷堂のように種類・点数が豊富で、保存状態が良好なものは少なく、きわめて貴重です。延寿寺日荷堂絵馬群は平成8年に台東区有形民俗文化財に登載されました。 平成17年3月 台東区教育委員会
了俒寺(Ryōgonji) 名前: 了俒寺ふりがな: りょうごんじローマ字: Ryōgonji区分: 寺院宗派1: 天台宗宗派2: 宗派3: 隋龍山特徴: 阿弥陀如来立像エリア: 谷中霊園郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区 谷中7-17-2参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/了俒寺 天台宗東京教区(了俒寺) 長安寺のある側から谷中霊園に入る道路を歩いて、すぐ左手にあるのが、了俒寺です。最初、お寺の漢字が読めず、ネットでいろいろ検索してしまいました。谷中霊園に入る経路の一つであり、時々通る道ではありますが、見た目はそれほど印象に残るお寺というわけでもなく素通りしていました。「天台宗東京教区」のお寺ページに詳しい縁起が記載されており、それを読むと徳川家光が出てきたり、なかなか凄い変遷を辿っていることがわかります。中でも興味を引いたのが、「クラシックレコードコンサート(杜の音楽会)を定期的に本堂で行い...」の下りです。「杜の音楽会」でネットで検索しても、それほどヒットせず、2010年に了俒寺本堂でコンサートが開催されたという情報を見つけました。最近はどうなんでしょうか。。。。あれば是非聴きたいものです。
感應寺(Kannōji) 名前: 感應寺ふりがな: かんのうじローマ字: Kannōji区分: 寺院宗派1: 日蓮宗宗派2: 宗派3: 光照山特徴: 通称神田山。一塔両尊四士。説法像エリア: 谷中霊園三崎坂から言問通り方面に郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中6-2-4参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/神田感応寺 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 谷中霊園の三崎坂方面入り口から言問通りに抜ける道を進み、途中小道を右に曲がったところに、感應寺があります。古めかしい山門と脇の松と石塔が印象的ですが、山門をくぐると境内は意外と開けており、左手に霊園が広がり中央に大きな屋根の本堂がどっしりと構えています。谷中霊園にある天王寺のガイドによると、元々天王寺は日蓮宗の感応寺であったが、幕府の命により、天台宗に改宗され、その後寺号も天王寺に改称されたようです。このあたり、この感應寺と因果関係があったのか気になっています。 渋江抽斎墓台東区谷中6丁目2番4号 感応寺 江戸末期の医師・儒学者。諱は全善、字は道純、抽斎は号である。文化2年(1805)、弘前藩医の子として江戸神田に生まれる。弘化元年(1844)、現在の浅草橋4丁目の地にあった医学館(東京大学医学部の前身)の講師になる。医学を伊沢蘭軒に、儒学を市野迷庵・狩谷(えき)斎に学ぶ。友人の医師森枳園との共著『経籍訪古志』(全8巻)は名高く、日本に伝わる漢籍の所蔵・伝来・体裁等を記したもので書誌学者・蔵書家としての抽斎の見識の高さが窺える。医師としての業績に、種痘治療法を記述した『護痘要法』の著書がある。安政5年(1858)コレラに罹り、54歳で没し、当寺に葬られた。境内の「渋江道純墓碣銘」は、抽斎の事蹟を刻むもので、漢学者海保漁村が撰した文を、書家小島成斎が記し、ともに生前の親交が深かった。没後、森鴎外の史伝『渋江抽斎』によって、初めて抽斎の名が一般に知られるようになった。 平成4年11月台東区教育委員会
法蔵院(Hōzōin) 名前: 法蔵院ふりがな: ほうぞういんローマ字: Hōzōin区分: 寺院宗派1: 天台宗宗派2: 宗派3: 光雲山特徴: 阿弥陀如来エリア: 観智院、初音幼稚園向かい側の道を入る郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区 谷中1-6-26参考URL: 天台宗東京教区(法蔵院) 言問通り谷中六丁目交差点から、三崎坂方面に抜ける小道に入り、道沿いにしばらく歩くと左手に、法蔵院があります。ヒマラヤスギのある小道からも近く、周りは大小、いくつものお寺が散在している一帯です。その中では小さめのお寺かと思いますが、山門から見た本堂はよく見かける屋根の形状ですが周囲と調和してとても綺麗です。お庭のような境内も綺麗に整備されており、とても雰囲気のあるお寺かと思います。天台宗東京教区にお寺の由来などが書かれていますが、この辺りのお寺がほとんどそうであるように、火事や戦いによる紆余曲折の歴史がつづられています。
経王寺(Kyōōji) 名前: 経王寺ふりがな: きょうおうじローマ字: Kyōōji区分: 寺院宗派1: 日蓮宗宗派2: 宗派3: 大黒山特徴: 彰義隊の敗走で山門扉に官軍の銃弾跡が残る。木造大黒天像安置エリア: 御殿坂郵便番号: 1160013住所: 東京都荒川区西日暮里3-2-6参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/経王寺_(荒川区) 荒川区のサイト:経王寺 日蓮宗東京都北部宗務所(寺院一覧) 日暮里駅から御殿坂を上り、諏訪台通りの曲がり角にあるのが経王寺です。境内は広く、緑に囲まれた本堂やお堂がひときは存在感を見せています。お堂には木造大黒天が祀られているそうです。知らないとまったく気が付かないですが、山門の扉に銃弾を受けたときの穴がいくつか空いています。いわゆる上野戦争のときに彰義隊を追った官軍が銃弾を撃ち込んだそうです。歴史を感じますね。 大黒天 経王寺経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農'冠(kanmuri)'勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が'要詮院(yōsenin)日慶'のために寺地を寄進し、堂宇(dōu)を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 荒川区教育委員会
円珠院(Enjuin) 名前: 円珠院ふりがな: えんじゅいんローマ字: Enjuin区分: 寺院宗派1: 天台宗宗派2: 宗派3: 東叡山特徴: 寛永寺の子院。薬師如来。総欅造の薬医門エリア: 上野桜木、言問通り南側郵便番号: 1100002住所: 東京都台東区上野桜木1-5-3参考URL: 天台宗東京教区(円珠院) 寛永寺の山門前のT字路から始まる裏道を、東京芸術大学の敷地塀沿いに護国院のある方向にしばらく進むと反対側に、円珠院があります。かなり年季の入ったような黒っぽい山門から覗く境内は、思いのほか奥行きがあり、大小様々な草木の緑が陽の光に映えて美しく輝いています。手前の縁石や土の部分は、苔をかぶったような感じで、その先には少し違和感を感じないでもないですが、ソテツが植えられています。遠く参道の先には庭園の庵のような本堂が見えます。「天台宗東京教区」によると、円珠院は寛永寺の子院ということで、山門は総欅造の薬医門として創建当時のまま残されているそうです。
大泉寺(Daisenji) 名前: 大泉寺ふりがな: だいせんじローマ字: Daisenji区分: 寺院宗派1: 天台宗宗派2: 宗派3: 清林山特徴: 阿弥陀如来エリア: 観智院、初音幼稚園向かい側の道を入る郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区 谷中6-2-13参考URL: 天台宗東京教区(大泉寺) 長久院から少し南に歩くと大泉寺があります。山門などの配置は長久院と似ていますが、薄黄色の塀が美しく茶に金色の飾りを付けた山門を一層引き立てています。「天台宗東京教区」の記述によると、「明治戊辰戦争の折り焼失した山門は、平成3年に再建」とあり、やはり再建によって新しく生まれ変わったのかもしれません。また、日本美術院旗揚げの話も書かれており、当寺に教授等が集合したそうです。ここでも、岡倉天心や日本美術院が出てきますが、谷根千のお寺は一つのテーマでつながることがままありますね。
自性院(Jishōin) 名前: 自性院ふりがな: じしょういんローマ字: Jishōin区分: 寺院宗派1: 新義真言宗宗派2: 宗派3: 本覚山特徴: 愛染堂・愛染かつらゆかりの地エリア: 観智院、初音幼稚園向かい側の道を入る郵便番号: 1100001住所: 東京都台東区谷中6-2-8参考URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/自性院_(台東区) 境内の緑と本堂が自然に調和した見ごたえある景観。創建から400年以上経っている古寺です。由来を読み、安置されているという愛染明王に興味が沸きました。なんでも『谷根千百景(石田良介著)』によると、相当恐ろしい顔や出で立ちをしているとのことですよ。 愛染堂・愛染かつらゆかりの地台東区谷中6丁目2番8号 自性院 自性院は、慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648)現在地に移った古寺である。当院は、愛染堂に安置した愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いたといわれる文化文政の頃(1804‐30)になると、その名は近在まで広がったと伝えられる。江戸時代中期頃から別名を俗に愛染寺といわれた由縁である。愛染明王像は、寺伝によれば、元文年間(1736‐41)、第九世貫海上人が境内の楠を切り彫刻した。像高1メートル、像内には、貫海上人が高野山参詣のとき、奥院路上で拾得した小さな愛染明王が納められていると伝えられている。愛染明王は、特に縁結び、家庭円満の対象として信仰されている。昭和の初め、文豪川口松太郎の名作『愛染かつら』は、当院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれる。 平成4年11月台東区教育委員会